30年も前の話で恐縮ですが、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオーリンズにあるTulane大学でしばらく学んだことがあります。ニューオーリンズはご存じのとおりジャズの街です。授業が3時半頃に終わり、寮に帰って宿題をやった後9時頃から仲間と街に繰り出すのが日課でした。メッカであるバーボンストリートにはジャズやブルース、ブルーグラスを演奏する店が軒を連ねており比較的安く音楽が楽しめます。 ただ、演奏が始まるのは大抵10時くらいからですから街に繰り出すのも遅い時間帯ということになります。当然帰るのは夜中です。テネシー・ウイリアムズという作家の「欲望という名の電車」に出てくるストリートカーに乗って大学前で降り、寮まで帰るのですが、電停から寮までは広いキャンパスを横切ることになります。治安に不安のあるアメリカですから深夜のキャンパスはちょっと怖い。 こんな時に頼りになるのが電話ボックスでした。キャンパス内にはどの方向に走っても100メートル以内に電話ボックスが設置してありました。私は受話器を取ったことはありませんが、受話器を取ると大学に常駐するキャンパス ポリスにつながります。キャンパスポリスは市警の大学支所という扱いでパトカーが配置してあり拳銃を持った本物の警官が時々パトロールしています。日本なら非難の的になるでしょうけれどもアメリカでは当たり前の光景でした。そう言えば近くの小学校の校門には「銃火器を所持する者は入校を禁ず」と看板に書いてありました。 なんとも物騒な社会に思えますが、私たちの周りでも様々な言葉が身近に聞かれるようになり価値観も多様化するなど良くも悪くも社会が大きく変化しつつある昨今、やがて「それは外国の話だ」と他人事で済ませるわけにはいかなくなるかも知れませんね。
段々物騒な世の中になってきたような気がします。犯罪が凶暴化しているような気もします。重機を使って貴金属店に押し入ったり、ちゅうちょ無く人を殺めたり、執拗に後をつけたり、我が子まで殺めたり。なぜでしょうね? 人の心が荒んできているのでしょうね。なぜ荒むのでしょうか? 一つは間違いなく格差が大きくなってきたからだと思っています。...
「きのうお母さんとお買い物に行きました。」「私のお姉ちゃんは非正規で・・・」「お父さんは銀行員です。」小学生ならともかく20,30の大の大人が「お母さん」「お父さん」などと言うのを耳にしませんか?小学生でも気の利いた子なら「母」「父」と言います。芸能人がテレビという公衆の面前で平気で「お母さん」と言っているのをよく聞きます。先日はとある有名評論家が「私のお母さんは」と言っていましたっけ。 「尊敬する人に敬語を付けて呼ぶのは当然でしょ。私は両親を尊敬していますから『お父さん、お母さん』と呼んでいます。いけませんか?」そう胸を張った人がいましたが、では偶然出会った上司に連れの母親を紹介するとき「私のお母さんです。」と言えますか? 言える人はよほど勇気があるか、あるいは呼び方を知らない人なのでしょう。「私のお母さんです。」と紹介したとたんに上司よりも母親に敬意を払ったことになりますから、恐らくそのお母さんの躾を疑われるか、常識を疑われるかのどちらかでしょうし、その人の評価は間違いなく下がりますね。 こうした敬語(尊敬語や謙譲語、丁寧語)は美しい日本語の根幹をなすものだと思いますが、いかがですか?